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[ゆたりやの亭主] 記事数:256

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戦争遺跡に暮らす。

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戦後70年ということもあり、
いろいろなコトが企画されるようだ・・・。
戦争体験者が減少することへの危機感は
誰もが感じていることだろう・・・。
 
少し前に「茨城県の戦争遺跡」という
フィールドワークシリーズの書籍を取り寄せた。
筑波大学の伊藤純郎教授が編者で
平和文化から発行増刷されている。
 
戦争遺跡といっても、この本で紹介されているのは
まさに、アジア太平洋戦争に直接、あるいは間接的に関係した
茨城圏域における構造物・遺構・跡地をまとめたもの。
 

image
 
いろいろ調べていて驚いたのは
僕の住む町内が、水戸南陸軍飛行場の跡地で、
自宅が建っているその場所には
水戸陸軍航空通信学校が建っていたのだ。
 
人の噂では聞いたことがあったが、
当時の地図とあわせて調べてみると、
みごとに僕の家は元陸軍航空通信学校の
敷地内に位置することがわかった。
 
空襲の標的になったのはまちがいないはずだ。
 
これらの飛行場の多くは、敗戦後の緊急開拓事業で
農地や住宅地に転用されたそうだ・・・。
まさに、戦争という悲惨な歴史遺跡の上で
暮らしているというわけだ・・・。
 
しかし、その事実を知ることで、
その土の上に「生きている」という意味を
あらためて深く考えるのだ・・・。
 
 
興味深い目次になっているので以下ご参考まで・・・。
 
第1章:茨城県の戦争遺跡概観
 
第2章:海軍航空基地
・霞ヶ浦海軍航空基地
・鹿島海軍航空基地
・筑波海軍航空基地
・谷田部海軍航空基地
・百里原海軍航空基地
・土浦海軍航空基地
・北浦海軍航空基地
・神ノ池海軍航空基地
・その他海軍航空基地
 
第3章:陸軍飛行場および民間飛行場
・水戸南陸軍飛行場
・水戸(東)陸軍飛行場
・水戸北陸軍飛行場
・豊鹿島(鉾田)陸軍飛行場
・西筑波陸軍飛行場
・下館陸軍飛行場
・龍ケ崎陸軍飛行場
・古河地方航空機乗員養成所飛行場
・大日本飛行場石岡飛行場
 
第4章:満蒙開拓青少年義勇軍
・満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所
・満蒙開拓青少年義勇軍訓練所河和田分所
・満蒙開拓幹部訓練所
・満州鉱工青少年技術生訓練所
・武具池
 
第5章:その他の戦争遺跡
・風船爆弾放流大津基地
・海軍特攻艇「震洋」訓練平潟基地
・日立模擬原爆投下地
 
第6章:空襲年表
 

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もともと首都東京に近く、
平らで広大な土地が多かったためか、
関東にあった64カ所の陸海軍の飛行場、航空基地の
実に4分の1が茨城県域に建設されたそうだ。
  
なかでも、日本で3番目に建設され、東洋一の航空基地といわれた
霞ヶ浦航空基地の海軍飛行予科練習部(予科練)は有名。
 
予科練制度が始まってから、終戦までの15年間で約240,000人が入隊し、
うち約24,000人が飛行練習生過程を経て戦地へ。
なかには特攻隊として出撃した方も多く、
戦死者は8割の19,000人にのぼるという・・・。
 
 
image
 
 
茨城県に戦争遺跡が多いことは子供のころから身近だった。
いまは家族連れで賑わう「国営ひたち海浜公園」とその周辺は、
昭和21年から昭和48年の27年間、在日米軍の水戸対地射爆撃場だった・・・。
 
小学校時代、毎年恒例だった春の潮干狩りは、
有刺鉄線が張られたその射爆撃場に沿った道を歩いて海へ向かった。
子供ながらに有刺鉄線の向こう側は米国という不気味な境界線を肌で感じた。
 
もともと、水戸(東)陸軍飛行場があったことで、
軍用地として占領軍に接収され、在日米軍の地上射撃、爆撃用地に使われた。
しかし、プロペラ機時代の飛行場をジェット機用に
そのまま転用したため、誤射誤爆が日常的に繰り返された・・・。
 
なかでも、超低空で飛行した米軍機が母子を殺傷した「ゴードン事件」や
市街地に13発の銃弾を誤射した「那珂湊市街地誤爆事件」は
地域住民にとって大きな衝撃だったに違いない・・・。
 
その後、地元住民による返還を求める声が高まり、
1973年3月15日、約1182ヘクタールの広大な戦争遺跡は
日本政府に全面返還されることになる。
 
美しい季節の花が咲く「国営ひたち海浜公園」の片隅に、
写真のような記録がひっそりと展示されている。
静かで、小さくて、ささやかな展示室だったが、
充分に存在感のある素晴らしいメッセージだった・・・。
広大な美しい公園の片隅ではあるが、
とても多くのことを感じとることができた。
 
 
この国で戦争遺跡や戦場跡(空爆地)の上に
暮らしている人は少なくはないと思う・・・。
身近なところに素晴らしいメッセージが残っていると思った。
 
 
素晴らしいメッセージ・・・感じ方はいろいろだが。
 
 

» Tags:国営ひたち海浜公園, 戦争遺跡, 戦争, 戦後, 占領, 茨城の戦争遺跡, 飛行場, 射爆撃場, 陸軍, 誤爆, 誤射, 返還,

Trackback(0) Comments(6) by Yasumine|2015-01-22 13:01

▽コメント▽
Commented by すわち 01/24 22:37

その海浜公園へ今日行ってきました
展示室の存在を忘れてしまったので
今春に行った時に訪れてみます。

昨年は筑波海軍航空記念館へ行きました
元病院の建物が昔は海軍の建物だっのは知りませんでした
ただ何となく飛行場だったくらいの知識でした
私の父が子供の頃は(戦前)その友部の海軍飛行場から
練習機が飛んできていたそうです
昨年その話を聞いた帰り道、海軍記念館へ行き
父の話していた練習機の写真を見た時は驚きました、
実際に戦争を経験した父はあまり怖い体験は無かったそうですが、
焼夷弾が落ちてくる所や高射砲で迎え撃つ所は
職場から見ていたのだそうです
今の時代の私にはあまりピンとしませんが
昔の暮らしの話や戦時中の話を
少しでも聞いてあげると喜んで話してくれるので
リハビリのつもりで聞くのも私の役目かなと思いました。

茨城の地にこんなに多くの
歴史があるの知りませんでした。

Commented by yasumine 01/25 22:47

すわちさん!
コメントありがとうございます。
-
海浜公園の写真
あのシートがかかった風景も不思議ですよね(^^
僕も去年見ましたよ。
お父様のお話し興味深いですね。
母も昔から戦争の話をしてくれました。
聞いてあげるのは良いことです!
そして親孝行です!!
-
少し知ることで
感じ方が変わってきますね。

Commented by みきゴン 01/26 10:02

今の時代、戦争の面影は全く感じられませんが
大きな公園は戦時中は何かの施設だった。なんてところが
多そうですね。

私の住む街は予科練の街です。
そして母校が予科練の適性部の跡地にあります。

在学当時の私たちと同じ年齢の子ども達が
その場所で沢山犠牲になった聞きました。
高台にあるために、今でもある長い坂道は
滑走路になっていたとか・・・

今ではそんな面影はありませんが、
そう言う街ですので慰霊碑や神社が多く、
戦争の事実を時々感じたりします。

Commented by yasumine 01/26 10:47

みきゴンさん!
コメントありがとうございます。
そうでしたか。身近に戦争遺跡があったのですね。
カタチあるものはいつか消えてしまいます。
でも、人々の記憶は伝えていくことで残るのですね。

予科練平和記念館のように
戦争の記憶を保存することも必要なのでしょう。

そして、感じることですね。

Commented by ema 01/27 02:19

私はみなさんとかなり感覚が違いますが、いまはまさに、戦前に突入していると思います。「キナ臭い」という言葉の意味が、実感できてしまう・・・日々それを痛感しています。気づいた時で構わないから、しっかりと歴史を見直し、たくさんの青春の無駄使いを繰り返さないように、一人一人が考える時が来ているのだと思います。

Commented by yasumine 01/27 11:02

emaさん。
すっかりご無沙汰しております。
コメントありがとうございます!
一年間放置していたブログを再開しましたよ〜!!
emaさんのブログはいつも拝見させていただいてました。
共感できるところは多々あります・・・。
-
感覚の違い?と、白黒はっきりさせることは、
境界線をひくようなものです・・・。
emaさんも僕もみなさんも
感じていることは、そう変わりないと思います。
ただ、少し表現の仕方やその気持ちの置き場所が
異なるだけかもしれませんね・・・。
-
僕の祖父もキナ臭い時代の熱狂に
翻弄された人でしたので、
どうして、その熱狂に巻き込まれたのか
その理由を深く感じていますが・・・。
-
主義主張を固辞することで熱狂は生まれる。
最終的には誰とでも武力衝突することになるのです。
そして、その代償は計り知れない・・・
-
そうはなりたくないですね。


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