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[まいにちが、記念日] 記事数:575

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サービス介助士

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今朝の読売新聞に「ユニバーサル社会」という見出しの記事がありました。
障がいをもった方や高齢者が「外に出やすいまち」になるためには、ハード面での整備ももちろんですが、ソフト面でのサービスもそれと同じくらい大切だと私は考えています。
むしろハード面よりも、すぐに、そして安価に実現する部分だと思います。

記事の中で、「サービス介助士」という資格があることを知りました。
交通機関の職員やホテル・銀行などサービス業に従事する方が取得しているそう。
「資格」という枠にこだわらず、知識としてとても興味を持ちました。

たとえば、道や駅や建物の中で困っている人がいた時。
「自分は何とか役に立たないか」と思っているのですが、自分の思いで行動したことが、その人にとって本当に役に立っているのか、心配になる時があります。

昨年、親子で手話講座を受講した時、最後に「私の手話で合っていますか?」と聞いてみました。
すると、「ちょっと違うところもあるけれど、手話を使ってくれることがうれしい」と答えてくださいました。
自分の技術の拙さを恥じ、大らかな気持ちで接してくれた講師の先生方に感謝の気持ちでいっぱいでした。

私は今まで、手話を使ってコミュニケーションしたいと思っていました。
しかし、それは一方的な押し付けでした。
私のすべきことは、手話を使って、耳の不自由な方の「してほしいこと」、「聞いて欲しいこと」をまず受け止めること。
そのあとで、手話を使って伝えるべきだったのです。

乱暴な言い方をすれば、
「手話が読めれば、正確な応対は筆談メインでもかまわない」ということなのです。相手も私が手話を読み取れるということがわかれば、かなり安心すると思います。
そうすれば、私の下手な手話を読み取るストレスから解放され、かつコミュニケーションをとることができます。

「心のバリアフリー」という言葉がありますが、やはり気持ちだけでは役に立たないので、ある程度の知識を持ち、ささいなことでも役に立てる人になりたいです。

Trackback(0) Comments(2) by つき|2008-05-22 13:01

▽コメント▽
Commented by ema 05/22 16:07

まさに、その「心のバリアフリー」を求めて、活動をしています。いまは、役者業の傍ら、夜勤でヘルパーをし、公演のときにも、音声ガイドや点字のチラシを作っていますが、浸透には時間がかかります。

本当ならば、誰でも暮らしやすい町というのが理想ですが、多数決の世の中、健常者のために作られた道、階段、入り口、乗り物はたくさんのバリアがありますよね。

しかし、それも、一概にはバリアではない、たとえば、駅や道端の黄色いボツボツ。これは、視覚障害者のためのものですが、車椅子の利用者にとっては曲者です。

道端で誰かが困っていたとき、何かできる技術をもっていることより、どのように手助けすればいいのか、聞く勇気をもつことが大切だと思います。私は子どものころ、障害者とすれ違うと、母が「見てはいけない」といったものでした。でもこれは、違うと思います。良く見る、自分とは何が違うのか、そして、行動するべきかどうかを考えればいいのだと思います。介助の講習では、こういう点を教えなければならないと思います。

いまでこそ、様々なバリアフリー活動が成されていますが、私たちはこれまで、目を背けすぎていたのだと思います。その原因のひとつは、障害者が積極的に外出していなかったということもあります。順番は逆ですが、私は、障害を持った人々に、もっと、外へ出てきていただきたいです。そうしなければ、何が足りないのかが私たちはわからないのです。気づくことができないのです。「ごめんなさい、でも、おねがいします。」という思いです。

以前、音声ガイドを作るに当たって、視覚障害者に話を聞きに行きました。どういうふうにガイドを入れれば、作品を理解しやすいか、聞こうと思ったのです。彼は、「そもそも、私たちは全部を理解しようとは思っていない。7割くらいわかれば、満足。ただ、そうやって音声ガイドをつけようと頑張っている人に本音を言って、ガイドのついた作品が減ってしまっては困るので、必要だといっていますが・・・」

そして「あなたは、自分の作品を100%理解して欲しいと思っていますか?」と。私は、その人の立場で、それぞれの視点で見てもらえればいいとおもっている。」といました。
「そう、つまり、そういうことなんです。」
自分のやろうとしていたバリアフリーサービスが押し付けのように感じました。

ここには書ききれないいろいろな思いがあります。いくら、障害を個性と思うようにしても、暮らしにくいことは変わりありません。そして、障害者もいろいろな性格の人がいます。先天的なのか、後天的なのか、どのような家族と一緒に暮らしてきたのか、どれくらい虐げられた経験があるのか、それによって、こちらのかかわり方も変わります。(健常者と同じです)

そんな毎日のなかで、私は障害者と「対等に喧嘩できる間柄」を、目指しています。

Commented by つき 05/22 23:52

emaさん、こんばんは。コメントありがとうございます。
何度も何度も読み返しました。

>道端で誰かが困っていたとき、何かできる技術をもっていることより、どのように手助けすればいいのか、聞く勇気をもつことが大切だと思います。

不便だから外出できなかったのか。
それとも外出しないから、バリアフリーという概念に気がつかなかったのか、私にはわかりません。

障がいの有無にかかわらず、「ニーズを知る」にはまず聞かなければならないのですよね。わかってはいるけれど、腰が引けてしまいます。
この辺りから、意識改革していかなければ。

emaさんの音声ガイドのお話。
お互いが相手を思いやりすぎて、きっと遠慮してしまっているのですよね。
無関心よりはいいと思うのですが、私も喧嘩とまではいかなくても、望むことや、「あなたの考えは違っているよ」と、はっきり言って欲しいと思っています。

私には2人の子供がいますが、上の子は軽度の障がいを持っています。
障がいというと大げさな感じですが、一緒に暮らしているとウソじゃなく「個性」に思えてしまいます。というか、もう彼の性格のように感じます。

世の中には、とても優秀な頭脳を持っていても、心がすさんでいる人がいます。
外に出られる丈夫な足があるのに、家から出られない人もいます。

いろんな状況の中で、いろんな思いを抱き生きている。先回りして気疲れするより、「誰かのために、何かをしたいという心がスタンバイの状態」でありたいと、思っています。

みんな違っていることこそが、普通なのですから。


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