回天神社で「ウルッ」とくるかたは同志です。
僕は水戸の松本町出身(大工町の裏のほう)でガキのころは
保和苑でカクレンボとかしてて、よく怒られていたんだ。
もちろん当時はこの場所に水戸烈士が眠っているなんて
判るはずも無かった年齢で、今の今まで記憶から削除されて
いたんだ。 けど・・・。
人生というのは不思議なもので何か説明の付かない力が
働いているとしか考えられないことがおきる。
このブログの最初のころにも書いているけど、僕は
何かに引き寄せられるかのように川沿いのあの場所で
生活している。
そんな折 来年 水戸藩 開藩400年がせまり
「桜田門外ノ変」が映画化されるというので、ちょこっと
調べだしたら、体中の毛穴から血が吹き出るほど
血が滾(たぎ)り震えが起こったの。そして気がついたら
涙まで・・・・・。
今の世は空前の江戸幕末ブームで、世間はすごいことに
なっているけど、そもそも幕末って1860年ごろを示すから
考えると150年もたっていない、最近の事なんだよね。
ほんと、ついこの間の出来事って言ってもいいくらい!!
その当時、水戸藩 藩主はご存知 徳川斉昭公で
烈公とも呼ばれるほど熱い9代藩主。
斉昭は唯一
中央(幕府)のやり方(大老 井伊直弼たち)に異を唱えて
幕府からは、敬遠される人物。
大奥が無駄だ~!と言い切るんだから凄いよね。
一方で、水戸藩内には国内最大の藩校 「弘道館」をつくり
「水戸学」という形を明確なものとして、各藩から尊敬の対象に
なったり、日本最大の都市公園「偕楽園」をつくり民の
憩いの場所を造ったりと、
やることなすことカッコいい粋な藩主。マチガイナイ!
ちなみに女性の方面は相当だったみたい(笑)
(偕楽園はNYセントラルパークについで世界2番目の
広さの都市公園&無料)
みんなは「水戸学」というものが今の日本のベースと
成っていることを知っているかな?
知らないよね!水戸に40年住んでいる僕だって
最近理解できたんだから。
もしかして封印されてた??何で??
当時、水戸学を学んだ水戸藩士たちは、
日本の行く末を明確にするために
命を賭して行動し、結果数多くの命が幕末に散ったの。
言葉で「散った」なんて書けば劇画の世界に感じちゃうけど
ほんとうに志を高くもって散ったんだとおもう。
当時は幕府に反する意見を述べることも、ましてや行動することも
全てが命がけの時代だから、どれほど最初の一歩の行動が
価値があって勇気がいったことか・・・。
大老 井伊直弼の朝廷無視の政策に日本中の各藩が
不安・不満を覚えながら日本の行く末を憂いでも
実際の行動を誰も起こせない時代。
そんな中、命を落とすことを躊躇わずに
維新の魁(さきがけ)となった水戸(今の茨城県)の先人達。
「梅は季節の魁 水戸は天下の魁」
ほんとうは天狗党(水戸藩浪士)が江戸の桜田門へ
向かった3月3日。
薩摩藩も京へ3000人規模で挙兵する約束だった・・。
結局動いたのは水戸天狗党だけだった。
(1人薩摩藩士も参加したがそれが後で分かると
薩摩藩は激怒した)
結局その後水戸は、改革ではなく過激派と認識されて
水戸藩内でも幕府側と改革側(天狗党)で
血で血を洗う争いが始まったの。
→実はこの争いの舞台となった場所のひとつが
湊~大貫地区でマーサーが住んでいる、その場所、
大貫の渡(島の渡し)だったのだ。戦慄が走るほどビックリ。
そこで寝泊りしてるんだよ。僕。
それだけじゃなく僕の母方祖先が武田耕雲斎
率いた行軍天狗党の一人だった事や、回天神社に
眠っていることが最近分かり、
何かただ事ではない空気を感じるのです。
しかも、
いままで長いあいだ開けることのなかった
「弘道館の正門」を開門をしたのだ。これってなんか
「積年の封印」が解かれたような気がしませんか?
きっと、水戸浪士の魂が水戸の空で集結してるんだと想う。
そんな理由もあり、僕の頭の中は空想なのか現実なのか?
そのラインすらも分からなくなる今日この頃。
日ごろの生活でも、ラジオ番組でも
「典型的なリアリスト(現実主義者)」で通しているのに
いったいこの僕はどうしたものか・・・。
とにかく素直に感じてみよう。この魂の感覚を。
この本文を読んだあなた!!心が少しでも揺れたら
きっとあなたも「今の荒廃した政治」を変えなくては!と
改革を望んでいる同志なんだとおもいます。
» Tags:天狗党,
Trackback(0) Comments(1) by マーサカワマタ|2008-12-07 16:04
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